昭和46年07月20日 朝の御理解
御理解 第65節
「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日によい悪いはないと思え。」
私は金光様の御信心を頂くなら、先ずこういう迷信的な考え方を、一掃して仕舞わなければ、本当のおかげの道はついて来ないと思うですね。それはお取次を頂いて様々なお願い事をする。成程その事その事については、おかげを頂くにしましてもねそれはただ、そういうおかげを頂くと云うだけであって、本当のおかげの道には繋がらんのです。本当にですね一心を立てようと思うとか、まあ一心を立てようとこう言われる。
けれども、その一心の立てようがないです、こういうものが根底にあったんでは。云うなら日柄方位、日の良い悪いを、まだ、そういう様な観念が、心の底にあったら、絶対金光様の御信心に依っての、本当の道は開けませんのですよ。信心をさせて頂いておって、金光様の御信心を頂いておってです。あれは、簡単に思っている人がある様ですね。金光様の信心しよっても、やはり、昔から言われて来たことはですのや。
やはり守って行っていかんと、ひょっとした事どんがあると、人から笑われるけんと云うた風の事を言うでしょうが。もうそういう考え方が心の中に少しあったら、もう絶対本当の道は開けんです。おかげは頂きますよ。それはやっぱそのかわり何十年、一生それで信心する人があるんですから。だからもう云うならば教祖の御教えを、本当に信ずると云うことですね。その信ずると云うところからいわゆる、金光教的本当の意味に於いてのおかげの道と云うのがついて来る。
そのおかげの道を一歩一歩、歩かせて頂くから愈々おかげに近づく。おかげが頂ける。この道さえ歩いて行きゃおかげが頂けれると云う確信が強うなってくるんです。そこに生活の中に安心を、どの様な場合であっても安心の心をもって、しかも先は明るう行けれるんです。もし例えばこういうものがここにあってですよ、思うとるつするならば、それは夢の様な事ですからまずおかげ頂かんと思うて間違いないです。
日柄方位又は普請をするのに、家相がよいの悪いのと言った様なことを、見たり考えたり、心の中にそれを感じる様ではね。これは本当に絶対ですからそこんところに私共は、心からですね、あるなら一掃しなければ駄目です。何十年信心しよっても、それを抜けきらない人がありますがね。それでは本当のおかげには決してなりません。ならん筈ですよ。よく考えてご覧なさい。
天地に対して無礼致しとこう御理解三節にあります。前々の巡りで難を受けおると仰る様に、その見当違いの考え方を、心の底に持っておって、おかげがまともになっていく筈がないのです。これはですね、金光様の信心しよってもですね、案外ですねここに信心もしよる、教えも分かっておってです、たったそれだけの事ですけれども、矢張り良い日柄を選んだり、普請をする時は家相を見て貰うたりという様な事をする。
それがある間はそのことがおかげ頂かんじゃないですよ。本当のお道に依ってのおかげの道はつかんですそれでは案外多いです。昨日も或る方がお参りをして来てから、家の母は熱心にお知らせなんかも神様から頂いてからその時々頂いて、金光様の信心を楽しみだと言うて、家にも神様をお祭りしとりますけれども、時々お稲荷様にお参りしますとこう言う。そしてその息子さんが、あんた金光様金光様ち言うちから、お稲荷様に参ってからち云うと、合楽の親先生はお稲荷様は祷人のごたる事を云わっしゃる。
いろいろは、お稲荷様の方が早か。証をすぐ云わっしゃる。例えばこういう様なですね、本当にこれから先でもあったら、もう絶対おかげは頂かんです。あなたご一人と例えばおすがりしとっても、いくら熱心にお願いしてもむごう拝うだっちゃむごうお取次を頂いたっちゃ駄目です。それだけがねころっと引かれるぐらいなら、まだ良いですよ。あんたがお稲荷様に一遍参ったけん、そがしこおかげば引いとこうと云う位なおかげなら、まだ良いですけれどね。もう根本的に本当の道が開けんです。
云うなら金光道とでも申しましょうか。即天地につながる大道と云うても良いでしょう。金光教祖を通して、天地に繋がる大道を潤歩する。大道の中には、そういう様な事はないです。それをですね自分な金光様の信心な、なんと熱心にお参りでもしよるけん、よかじゃんの。時々やっぱり迷うたこつがある。そすとお稲荷様の方がはっきり云わっしゃると云うて、昨日或る青年の方がお届をされたですけどね。時々じゃけん、お稲荷さんに参ったちゃよかろう絶対いかんです。
これは今日、私が云うのはね、本当の金光教に依っての助かりの道が開けんのです。お参りもする。お願いもすりゃ、それは誰様を拝うだっちゃですよ。お願いしてからおかげ頂きますよ。けども云うなら、金光様の御信心にもとったものの見方、考え方拝み方と云うものが、すっきりしない限り、本当の金光様の御信心に依って、真の道がついてくる。勿論金光道とも云や、天地の道とも云うでしょう。その天地の大道に出なければ、人間本当の幸せはないのです。
それは家建てる時だけじゃからよかろうもん。結婚の時だけじゃから。それが自分の意志でないなら、これは又別ですよね。私はここで皆さんに娘が嫁入る、息子に嫁後を貰う。ところが先方は信心がないから、矢張り良い日を選んだり、黄道吉日を選ばれる。私の方は何時でもよいです。お宅の方の御都合の良い様にと云うなら。これは又別です。私共は何時でもよいです。もうそれこそ、良い日、悪い日は無いと思えと云うことが身に泌み込んでいる。但し信心の無い人はそういう訳にはいかん。
だから私の方は何時でも良いですから、お宅のご都合の良い日にと云うなら良いのですけどもです。暦を見てみてから、何日は何じゃからと云う様なものが、これから先でも、もしあるとするならね、云うならば、もう本当の道には出られんと云う。もうこれは確実に出られませんですね。たったそれだけじゃけん、只結婚の時、日柄を見るだけだから、と云うけども、たったそれだけで、真の道は出られません。おかげが、それだけ差し引かれる位なら問題じゃない。
本当の金光様のご信者、お道の信心のいわゆる、信奉者としてのおかげを頂くのは、こういう風な教えですね。この頃から、日田からお参りしている。家を建てたけれども、どうも、家相が悪いと云われ、それで建て直さにゃんと、こう或る祷人さんが云わっしゃった。ところが、そこを建てた大工さんが云う事です。それはそげんじゃろうばってん、金光様に参ってんなさい。金光様ならば、そんなことはすぐ祓うてやんなさる。家相もなからなきゃ、あげな事は金光様は云わっしゃらんから。
金光様にお願いすると良かですよと云われたから参って来たと云うて、参って来た方が有ります。これは折角建てたつを、又崩したり模様替えしたりすることはお金がかかる事。そすと金光様は、そげな事云わっしゃらんから頼みに来たと。それだってもいかんですね、矢張り。金光様のご信心の生き方で、そこんとこだけ言っただけじゃいかん。もう芯から根から、それに成りきってしもうて、次のいわば、信心が進められて行かにゃいけません。しかし案外多いですよ。
先日もある大変な難儀な問題で、お参りして、もう合楽でも二十年来、信心をしております。他所の教会でも随分永く信心の稽古をしておられます。ところが二、三日前に昼の御祈念に、何かそういう御理解がありましたですね。やっぱりこの六十五節ではなかったじゃろうか、から確か頂いたですよね。そしたらその人が云われるのです。もう私の方は一家を挙げて、これだけの信心するばってん、これだけは昔から云われとり、もう私だん、親から云われて、泌み込んでしもうとると云うお届がありました。
それじゃおかげ頂かれんよと。それだけでも改まってごらん、おかげになるからと言うて、私は申しましたことでしたけれどね。もう断ち物をする第一ですね。もう家を出る時には、絶対左足から出らんならんち云われたち。右足からどん出るとあら今んとは右足からじゃったけんでですね、一遍回れ右してから出直す。それは今でん私どんでんすると云われたち。お母さんが姑お母さんがそりゃ喧しかったげな。ほらあんた右足から出たばのち言うげなけん、すぐまた後戻りしてから、左足から出直すげな。
それがですね、しかも、それが言われとるからもう、家族中がそうだち言うのですから。しかも合楽、もう何十年お参りしよるですよ。大変なおかげ頂いて、あんたげぐらい、おかげ頂いたところはなかろうち言うくらい、おかげ頂いとるですよ。例えば、この部分的には。娘でん息子でん、家の上にでん、そりゃ、だから、そういうおかげを受けられるやっぱ。だから今日は一時の御祈念に参って来てからですたい。
もう今度こういう大変な事をお願いせんならんのですから、これだけはいっちょ一家中が改まらにゃいけんばってん、家のお父さんが、それはもう頑固で頑固で、その事を思い込んどるちこう言う。まぁ本当に、金光様の御信心を何十年頂いとってから、何という本当に悲しい事じゃろうかと思います。家を出る時にはまたぐ時に、絶対左足から出らにゃならん。それがもう身に泌み込んどるち言う一家中の者が。
だからそう言う所を改まると言う事が、本当の事が分かって、本当の事にならせて頂くと云うだけでも、矢張り大事なことですね。今申しますその方の家なんか、それは本当に、お話を聞いたらもう本当に、どがしこおかげ話をしたっちゃ尽きんち言う位に、おかげ頂いとるです。合楽に御神縁を頂いて二十年近くの日にちの間に。もうそれはもうたまがるごとおかげ頂いとるです。けれどもあんた方は合楽的信心と云うものが、全然身に付いとらん。只お願いしておかげを頂いただけじゃと私が申しておる。
今日私がそういう事をしちゃ良いとか悪いとかと云うことじゃなくてですよね。もうこれは、おかげを頂く根本の姿勢ですここは。天地につながる道と云うか、本当に天地につながる道に出るための根本の姿勢です。それでも矢張り日柄を見ろうごとあったり、方位を見ろうごとあったりするならです。何故見ることが愚にもつかないことを、もう少し研究するが良い、学問的にも。
天地の道理と云うものが分からせて貰うたら、それこそ天地の中に指一本で押すだけでも、天地金乃神様のお働きと受けんで良かと言う所は、指一本で押すだけでもないです。その道理を聞かれた時にです。教祖様の御時代に、御本部参拝されますと、教祖様の御遺品なんか展示されておりますね。あの中に何とか太夫と云う名はちょっとわすれましたが易学の大家が最近、金光教では不思議な事を言う。人の心を迷わせる様な事を言う。それは今まで言うて来た事を、全部迷信だと云うておると言う事がです。
その当時その様にそれが生活の元になっておると云う人達があった訳です。山伏修験者又はそうした人相見、手相見易学といった様なそれで御飯食べて行きよるという人はです、金光教祖それこそ自分達の飯茶碗を叩き落とす様な事を云うて、大変な反発じゃあったと。それでその大家である何とかと言いましたかね、上野先生一客の本を奉納した何とか太夫ち言いよったが、その人が本当に天地の道理を聞かせて頂いて、天地の中にそれこそ指一本でも金乃神様の御徳に洩れる所はないという事を説明された。
もうそれこそ、大した教えであるとしてです、自分が沢山勉強してきた御本を全部そのまま教祖の前に投げ出して、教祖の教えを乞われたと云うことが残っております。それが今残っておりますよね。金光様の御信心を頂きゃですね。もう本当にそうです日田の綾部さんは、まだ一年半にもならんぐらいでしょうけれども。御理解を頂けば頂く程今迄矢張り、宗教とか修養とか、そういう様な事にも心がけて見えられた。もう自分の所は先祖代々から寺の総代までされて、その宗教に帰依しておられた。
そしてその道のお坊さんでもありゃ、同時に外交官でもあられたんですね。「明烏」と云う大変有名な方が二十巻にわたって、宗教のすべてと云うてよい位な、書物を表しなさった。書きなさってそれを特別の手づるをもって、それを入手された。もうそれを見れば宗教の全てが分かると云う様な御本である。ところが合楽で御理解を頂き出したらです、そういうものが影が薄うなって来た。そういうものよりも親先生が説かれる、天地の道理の方が本当だと分かってきたんです。
だから、私のところでは必要でないからと言うて、全巻奉納になっております。金光様の信心が分かったら、本当に分かったら、そういうものは、必要でなくなってくる訳です。二三日前は、吉井の熊谷さんが、それこそ私はお菓子箱かと思った。立派な箱に風呂敷で、ここにお供えしちゃるから。それから私は、開けてみたところが、黒の漆塗の、丁度文箱か手箱ぐらいの太さにですね、いわゆるこちらは真宗ですね、いわゆる親鸞上人様が書きなさったお経文なんかが、その家の宝物の様にしてあった物を。
もうこの必要はありませんと云うて奉納になっておられます。これは私は神様に対する一つの証を立てることになると思うですよ。まだ改式はしとるばってん、仏壇も壊しきらんち云うことではね。私は壊せとか流せとか言う事じゃないです。そういう事でですね、問題になるような事もあったんです。だから他の神を侮ったり軽蔑したりしてはいかんと云われる位だからです。問題は、私が云うのは、根本的精神の事なんです。もう金光大神の教えに依る外はない。あなたのおかげを頂く以外にはない。
その姿勢が出来たらです、成程易の本であろうがどういう素晴らしい宗教全般の事が書いてある御本であろうが、先祖伝来伝わって来た、その教えの宝物の様に大事にしてある、お経物の本であろうがです。この位に私はあなたに帰依致しましたと、金光大神に帰依をすると云うそこからです、私は本当の金光大神が教えられるところの天地の道というのは開けて来ると思うです。だから改式をするとおかげが受けられると言われるのも、やっぱ、そこんところが分かって改式をするから。
これはですね、私は改式をしてしまって、家には大神宮さんもなからなければ、荒神さんもない。これは私自分自身で焼きました。如来様もなからなければ、何にもない。もう金光大神ご一人と云うことになって、改式のおかげを頂いてから、本当のおかげは始まったです椛目の場合は。それは私は、天地金乃神様に対する、金光大神を通して一つの証を立てた様なものだからじゃなかろうかと思います。云うならこれから先でも、外に迷うと云うことがなくなってきた。
今迄迷信的な考え方が、矢張りあった。やっぱ昔から云うて来た事は守らなければもしもの時には、人から笑われると云う様な気持があった。けれどもそういう事で、もし笑われることがあるなら、笑われてもよいと云う覚悟。そこに私は金光教の信心をさせて頂くと云うことは、そういう本当に白紙になっての、金光大神でなからなければ、本当の金光大神の道は開けません。金光様の信心しよるけんまだ何様も拝みよる。まだ合楽に云うと、先生に怒られるかも知れんけんで。
お稲荷さんに参ってから日柄方位のことやらでも、一つ尋ねて来ようと云うだけだから、それだけ、おかげが差し引かれると言うならまだよい。けどもそういう事では、絶対に金光様の信心に依って本当の意味に於ての、いわば、天地の大道に出る事は出来ない。本当の意味に於いての金光教での本当の助かりは望めない。先程から私が申しました様に。私の方は昔から家中、それは泌み込んでおる。家を出る時にはまず左足から出らなければ、一日喧しく云われとる様な迷信がです。
私の家の中一ぱいにある。もうこれだけでも、本当のおかげが絶対に受けられん事が分かる。けれども私はその方がですね、本当に一生懸命の今度のお願い問題が問題ですから、一生懸命のお願いをしなければならん。又その日の一時の御理解が、そうであったからそこに気付かれた。何十年振りに。金光様の信心を何十年しよってから、それはそれこれはこれでして来とると言うことがですたい、分からせて頂いたと云う訳ですが、私は多くの金光様の御信心を頂いてる者の中にも。
そういう人がまだ実は沢山ありはせんかと思います。この頃も或る人が参って来てから、もう私はびっくりしました。どこどこ教会の総代さんが、御詠歌上げて回りござったち、何かその御同行があるとでしょうたいね近所に。そるけんで御詠歌上げてから回りよんなさった。金光様の○○教会の、永い間総代をしとられるという方が。けども笑う訳にはいきません。合楽だって同じことそういう様なことでは。
今日は六十五節からそこんところをです、一つ芯から分かって頂きたいと思います。どうでしょうか。まだ日柄方位やら普請する時には、やっぱり一応は家相なっと見らにゃち言う様な心が、これから先でんあったなら、絶対ひとつ本当の天地の大道でも出られないと。神様にお詫びしてお許しを頂いて、そこんところだけは、こげんして行こうと、おかげは頂けましょう。けれども金光大神を通して天地の大道に出られないと云うことをです、分かって頂きたいと思うですね。
どうぞ。